こちらに来てから、日常のあらゆる側面で嫌でもアメリカとカナダの二国を
比較してしまう。アメリカに慣れきっている自分としては、カナダに来ても
ほとんど違和感はないだろうと当初思っていたけど、意外にも言葉で説明できない
肌感覚レベルでの違いを感じることが多い。カナダに来た当初は、そのせいなのか
珍しく適応に少し時間がかかった気がする。
新天地で大学院をスタートする、という心理的なプレッシャーを差し引いても
やはり違和感があったのです。
明らかに違うと分かっている国に行く時は覚悟がある程度できているもの。
その点カナダは一見アメリカとあまり変わらないのに微妙に違う、でもそれが何
なのかよく分からない、という掴み所のなさというか、歯痒さがジワジワと効いたんだと
勝手に考えている。
先日(といっても二週間ほど前)、日本人の知り合いの方とビールを飲んでこの話題を
ふってみると、彼も同じような感覚を持っていることが分かり、一緒に色々と考えた。
共同作業でなんとかその違いを言語化することによってなんとなくその輪郭が
見えてきた。見えないものが見えてくると安心するもので、
何なのかよく分からない、という状態が不安を助長します。
未だにかなり大雑把&カナダと言ってもバンクーバーしか知らないので
あまり一般化はしたくないですが、今のところ考えてることをちょこっと
書きたいと思います。完全に独断と偏見の塊なので話半分で適当に読んで
貰えると幸いです。バーッと思いついたままに書いたので日本語変かも。
1.メルティングポット/モザイク
この表現はよくこの二国を比較する時に使われる比喩。
アメリカは移民をアメリカにassimilate(同化)する方針、カナダはそれに比べて
移民が自国の文化を保ちつつ共存を目指す、という方針のようです。
のようです、と言っても確かに感覚的にもそう感じることがある。
どういう場面でそれを感じるかというと、これもかなり感覚的な話なので
統計的に正しいか分かりませんが、どうもカナダの方が母国語をしっかり保持している
人の割合が高い気がする。
例えば同じベトナム系でもアメリカの場合はベトナム系だけどもうベトナム語は喋れないよ、
というような人が多いのに対して、カナダではしっかり家庭で喋っているせいか一見完全に
英語の方が強そうに見える人でもベトナム語の方も割としっかりと喋れる人が多い。
そんな印象。
もちろん出身国によって傾向は違う気がします。中国系はコミュニティ意識が強いせいか
どこに行っても中国語を何世代にも渡って維持していたり。
昨日ちょうど同じ学部の中国系カナダ人の友達が面白い話をしていた。
彼女は英語の方が完全に強く、国籍もカナダだけど、よく「どこ出身?」という
質問をされ、「カナダ」と答えても「いや、元々はどこから?」と聞き返される
ことにイライラする、という話をしていた。
僕の感覚から言うと、アメリカの方がどちらかというと見た目は違っても同じ
「アメリカ人」という括りに入れてもらえるハードルは低いような気がする。
(社会的に白人との差別なく、というのとはまた別の問題です)
事実、アメリカにいると僕もしょっちゅうアメリカ人に間違われることがあり、
その度に「日本人です」と主張していた。
なんかこのカナダの「モザイク」文化の中にいると、見た目の違う国民同士の間の関係に
対して「お互いの文化を尊重」というようなポジティブな印象よりも、「それぞれの文化
でクラスターを作ったバラバラの社会」というような印象をどうしても感じています。
アメリカの同化政策が良い、という主張がしたい訳では全然ないのですが。
(弊害もたくさんあるはず)
要するに何が言いたいかというと、カナダの方が国として一体感が無いというか、お互い
割と無関心でドライ、という印象を今のとこ持っています。
大学レベルでも、カナダではアメリカのように学校をあげてフットボールの
試合を応援に行く!というような愛校心は少なくともUBCでは全く感じられません。
2.ダイナミズム
知り合いとの話の中で「カナダはのっぺりしてる」という言葉が出てきました。
僕も同じ印象。これって言葉でどう説明すればいいのかよく分かりませんが
のっぺりしてる、というのはおそらくダイナミズムをあまり感じない、ということ
と同義なんだと思う。
アメリカン・ドリームという言葉に見られるようにアメリカの方が国としてリスク
を取ってでかいことをやってやろう、というお祭り的国民性があるし、そういう人達が
集まってくる傾向にある。一方、カナダはどちらかというとのんびりかつ保守的で、
そこそこの生活をしていればいいやーというような欲の無さを感じる。
(ここのとこ多分一般的な認識とも一致していると思う)
この「欲の無さ」と「保守性」がリーマンショックの時カナダの銀行を救った
らしく、リスクに対する両国の特徴をよく表している気がする。
この感覚何に似ているんだろう、と思ってちょっと考えてみたら、
関東から北海道に移り住んだ時と重なった。
北海道って確かにもの凄く住み易いし、別に選り好みしなきゃ仕事
だってあるし(ここはアヤシイかも)、情報だって今の時代インターネット
さえあれば極端に乗り遅れることもないけど、でもなんだかやっぱり関東から
来た者にすれば活気というかヒト・モノ・カネのダイナミズムにどうしても欠ける
感じがするのです。
ダイナミズムを感じる所/社会って多分結果的にその犠牲が(多くの場合格差という
形で)必ず存在して、それを楽しめる立場にいる分には機会や情報に恵まれて楽しい
場所だけど、全体で見ると問題が多いんだろうと思う。言い換えればエキサイティングな
場所ってその引き換えになんらかの形でのリスクがある場所。
人間はなんだかんだ危険な香りのするものに惹かれるところがある。
一方「住み易い場所」っていうのは質的にはそれとは対極にあるべきで、
カナダはそういう場所なんだろうと思います。何を求めるかの違いで、その共存
を求めるのは根本的に矛盾してるんだろうと思う。もちろんバランスの問題ですが。
3.フレンドリー/親切・丁寧
アメリカ人はフレンドリー、カナダ人は親切・丁寧。
この微妙な違いは意外と感覚的に大きい気がします。両極端にいる人
なら喋った感じだけで大体アメリカ人かカナダ人か分かるほど。
一般的に言ってアメリカ人の方が人懐っこく、割と最初からラフな関係で
あまり気を遣わない感じ。カナダ人はどちらかというと日本人的な感じで
お互い気を遣ってることがなんとなく"空気"で分かる。アメリカ人にもそういう
人はもちろんいるけど、どちらかというとそんなことお構いなしというか
好きなことを喋りまくって終わり、みたいな人が結構いる。
キャッチボールで例えるならカナダ人のほうがしっかり相手の胸を目掛けて
気を遣ってボールを投げてくれるけど、アメリカ人のほうが最初からいきなり勝手に
ピッチング練習を始めてくるようなタイプの人が多い印象。
ちょっとアメリカ人を貶しすぎかな(笑)
以上、かなりざっくりの米加比較でした。
これからまだまだ出てくるんだろうと思うので思い付いたら書いてみたいと
思います。逆に両国で経験のある他の方の意見も聞いてみたいところ。
雨の小道
7 年前
8 件のコメント:
すごく興味深いです。
「のっぺりしている」という一言で、
私は札幌を思い出しましたが、読み進めていくうちに遊サンも北海道に喩えていたね。
札幌で2年くらいはずっと感じていた「寂しさ」がカナダに住んでもあるのかも。でも札幌の人たちは、本当に大人で、追求しすぎないところ、踏み込んでほしくない領域に踏み込んでこないところが次第にとても居心地よくなりました。
って、何の話をしてるんだ??という感じですが、「何となく」の直感を言語化する作業はとても大切で、他人と共有できるとますますいい。私の場合はルームメイトとの時間にかなり感化されているし、カナダで出会う日本人やアジア系の人(別に他人種がダメというのではなく、感覚的に共有するものが多い相手)と、話してみるといろいろ気づいて楽しいだろうね。
あと、中国系カナダ人が「ほんとはどこの出身?」と聞かれてイライラするとありましたが、これはアメリカでもよくある話だと思ってました。両国を統計的に比較してみるとおもしろいかもしれません。
アメリカ史だと、象徴的なのがcab talkで、メキシカンのタクシーの運転手からアジア系アメリカ人の客が「英語上手だね」(観光客に見られている)と褒められてムッとしたり、黒人の場合は手を挙げてもタクシーが止まってくれない、みたいなエピソードはそれこそ腐れ文句のようになってますよね。
カナダとニュージーランドは、おそらく先住民も念頭において、多文化主義を謳っていますが、このブログを読むと、一概に絶賛もできないところが面白かったデス。
文化の違いを自分の体験を材料に自分の言葉で言語化しようとしているところ、面白く読みました。
カナダは合衆国という隣りの巨人を嫌でも意識せざるをえず、違うやり方を意識的にも無意識的にも求めざるをえない、というところなんでしょうね。
両国の文化、国民性の違いが、planningの違いとして現れているかどうか。sustainabilityという観点からは、両国の文化・国民性の違いはどう評価されるか・・なんてあたりはどうでしょうか。
レポートの課題みたいだな。
>依利氏
丁寧なコメントありがとう。
のっぺりはまさに札幌的な感覚。
この話札幌でもしたよね、思い出して
来た!
cab talkの話は、多分かなり
アメリカでもあることなんだと
思う。アジア系っていう見かけだけで
観光客だっていう先入観をもたれる
のとか。なのでかなり僕の感覚です。
アテにしないで欲しいけど、空気で
なんとなく感じることと統計取って
みたらどうなのかっていうのは比較
してみたら本当に面白いと思う。
研究デザインが難しいと思うけど。。
カナダは確かに先住民のことは凄く
敏感だよ。特にplanningの世界だと
どんなプロジェクトをするにしても
必ずFirst Nations(先住民のこと)は
重要なステイクホルダーとして
関わってます。
>Dad
文化の違いを言語化するのはかなり
難しいけど楽しい作業です。
隣の巨人というのはまさにその通りで、
意識的に差別化を図っていることは
間違いないです。
Planningの世界では、まだ学び途中
だけど、カナダの方が資源国である
という点で、環境問題を語る時も必ず資源管理の問題が中心となる傾向に
あるように思います。
開発が環境に悪影響を及ぼして
いる、という話の中で必ず漁業、
農業、林業、鉱業などの第一産業との
トレードオフの話が出てくるよ。
アメリカでもオレゴンはそういう傾向
にあるけど、産業構造の違いが
結構ある気がします。
う~ん、すれ違ったな。
単に合衆国とカナダのプラニングはどう違うか、と訊いてみたかったわけではない。
単純化して言えば、melting-pot的なplanningとmosaic的なplanningと呼べるような違いが、両国のplanninngの目標あるいは手法の差として見られるかどうか・・というようなことなんだが・・如何?
遅くなって失礼。
うーん、他のトピックと同様米国の
planningをしっかり学んでないしまだ
カナダすら浅いので今んとこの印象から
しか言えないけど・・・。
米国の方が伝統的な黒人vs白人、または白人vsその他の差別問題をどうにか
しようっていう風潮が強い印象。
カナダはそれに比べて先住民vs白人、
または違う国出身の人達同士が同じ
コミュニティでどう分かち合うか、
みたいなことにフォーカスがある
ような印象。
ぼやっとした印象はそんな感じかな。
でも警察とか公務員に対する
ダイバーシティートレーニング
みたいなことはどちらの国でもやって
るね。
あ、あとカナダの方multiculturalismを促進するようなプロジェクトに連邦政府からグラント(資金)が出やすいってなようなことを読んだ気がするよ。
やぱ難しかったみたいだな。空振り。
そういう風潮、文化の違いの中で実際のplanningがどう変わってくるのか来ないのか、という質問なんだが。
ま、未だわからんわな。。。がんばってちょ。
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