一緒になったバイトのおばさんと2人で
封入作業をしながら6時間喋り倒した。
僕は何故かおばさんと相性がいい。話が弾むのだ。
昔からなんとなくそれは自覚していたが、何故なのか
最近分かった気がする。
つい最近父親にふと「オマエ、血の繋がったおじさんいないだろ?」
と言われた。よく考えたら本当だ!
父親は妹一人、母親は姉妹二人。全員オバサンなのだ。
逆に父親は血の繋がったおばさんがいないらしい。
そしてつい先日、たまたま本屋で手に取った『逆立ち日本論』
で、本ブログの引用としてよく使わせて頂いている内田樹氏と
養老孟氏が対談で似たようなことを書いていた。
以下長いけど引用(新潮社HPより)
第一章 われわれはおばさんである
われわれは「おばさん」か?
内田 「ウチダさんには、なにかだまされたような気がする」
って話し相手によく言われるのです。
養老 それなら、ぼくもしょっちゅう言われます。
内田 養老先生もですか。関係あるのかないのかわかりませんが、
この本の企画はそもそも編集担当の方が、ぼくと養老先生は
「おばさん」っぽいところが共通していると感じたから始まった
のだそうです。二人ともおばさん的メンタリティを
持っているのだそうです。
養老 おばさん?
内田 そう、「おばさん」。
対応が女性っぽいということなんでしょうかね。
思い返してみたんですけど、ぼくの場合は、幼児期
から少年期にかけての母子関係が濃厚だったせいかも
知れません。「中年のおばさん」である母親を相手に
毎日のように「親戚のナントカちゃんがどうした」とか
「あそこのウチの夫婦仲はどうだ」なんていう世間話を
伺いながら、お茶菓子をつまみながら「はーん」
なんぞと返事をしつつ長時間にわたって懇談して
いましたから。子どものころから、そういう
「おばさんの語り」に慣れ親しんできたせいで、
「おばさんたちにはロジックが通らない」ということに
ついては幼少期からすでに熟知しているわけですし、
それにどう合わせてゆけばいいのかということも
体得されてくる。おばさんの話というのは話が
「ツリー状」に階層的に体系化されてなくて、
「リゾーム状」に脈絡なくだらだらと横に広がって
いくんですけれど、そういうのがたぶんいつの
まにか好きになってしまったんです。
中学生の男の子が母親と差し向かいで大福なんか
つまみながらお茶をだらだらと飲んで、
「あのうちもどうかと思うわよ」「そうだわねえ」
というようなやりとりをしていたわけですね。
それを見た兄貴に「おまえ、お袋なんかとお茶飲んで、
よくあのおしゃべりに付き合えるな」とあきれられた
ことがあります。たしかに言われてみればその通りで、
別にとくに誇るべき知見が開陳されているわけ
でもないし、有用な情報のやりとりがあったわけでも
ないんです。どこがおもしろいのかと改めて聞かれると、
たしかに別に面白くもない。
でも、ぼくとしてはその話の展開の仕方がたぶん好き
だったんでしょうね。おばさんの話って、ずりずりと
横にずれますでしょう。論理の肌理が、男性の操る
ロジックとはちょっと違う。
それが何となく性に合ったんです。
養老 その違いはわかります。
内田 おばさんの思考って、頭で考えたことではなくて、
どちらかというと非常に身体感覚的ですよね。
論理がふらふら揺れる。
おじさんは頑固ですけど、おばさんってあまり頑固じゃない。
おじさん相手の場合、意見が一度対立すると調整するのが
大変ですけど、おばさん相手なら、話の具体的な細部について
いちいち「そうそう」と頷いてさえいれば、それらの具体的な
細部から一つ抽象的な結論を演繹するときは、極端に言えば、
どんな結論にいってもおばさんは気にしないんです。
論理の次元が繰り上がるときには、あまりおばさんは
こだわらない。話のユニットが一つずつ連想とか関連語
とかで水平方向に繋がっているから、「だから」という
論理の階梯が垂直方向に動くときは「横の繋がり」が
ないので、たぶんあまり実感がない。
ですから、実名入りの具体的な世間話をあれこれとした
あとに、結論として出てくる命題は、
「結局お金だ、ということよね」になっても、
「やっぱり、正直がいちばんということよ」になっても、
「頭のいい人は違うわね」でも、なんでも繋がる。
縦方向には繋がりがないから、どんな結論でも
いけるんです。
こういう論理のでたらめさは父親と話すときには
ありえなかった。父親は一枚岩で終始一貫しているから、
これをロジカルに攻略することはきわめて困難です。
一度対立すると殲滅戦になるしかない。
だから、向こうも自説の枠組みは容易には譲らない。
でも、おばさんたちはフレキシブルで取替え自由だから、
話が具体的で「ああ、そういうことって、あるわよね」
というところで一度話が噛み合えば、あとはずりずりと
どこまでもついてきてくれるんです。
養老 講演会でも、おばさんのほうがよく笑ってくれます。
おじさんはなかなか笑ってくれない。
笑ってくれないどころか、
笑うものかと身構えている様子さえうかがえます。
内田 おじさんはほんとに笑わないですね。
席から演壇をにらみつけている人も多いし。
ぼくは子どものときからそういった「おばさんロジック」
なるものに慣れ親しんできたので、男性言語と女性言語と、
両方いける一種のバイリンガルじゃないかと思うのです。
男性言語でしゃべっていて、つっかえたときは、パッと
女性言語に乗り換えて、「あら、ダメねえ。話ごちゃごちゃに
なっちゃって、何話しているのかわかんなくなっちゃった」
と論理が立ち往生したこと自体を笑いネタにして、隘路を
切り拓いてゆくことができる。
男性的ロジックでぐいぐい押していってうまくゆかなく
なると、急に「あら、これじゃダメなんじゃない」という
ふうに放り出すというぼくのやり方が、男性ロジックで
ついてきた人からすると「なんかだまされたような気がする」
という印象がするんじゃないでしょうか。
「その場ではうまくウチダに言いくるめられちゃったけど、
よくよく考えてみるとあれはおかしいだろう」と後から文句を
言われること、多いです。
(中略)
内田 母親との関係性が濃い少年というのは、もしかすると、
「お節介」というふるまい方に対してあまり違和感や嫌悪感を
持たないんじゃないでしょうか。そんな気がします。
だって、母親が「お茶飲まない?」と言ってきたときに
「やだよ」と断る選択肢だってあったはずなのに、
結局母親の世間話にずるずると引きずり込まれて
いったわけで、母親のお節介に対して「はいはい」
と応じてしまう性向があったということですよね。
ぼく自身、ひとから「ウチダはほんとうにお節介
な野郎だな」とよく言われるし、それはほんとに
そうだよなと思うんですけれど、これはやはりおばさん
とのかかわりを通じて「お節介耐性」が強化された
せいなんでしょうね。
養老 ぼくは、おばさんの話に興味があったわけではないですが、
お袋が割合と「説明が多い」タイプだったので、それに慣れた
ということだと思います。父親はぼくの幼い時になくなって
医者の母親は家で開業していたから、それをシャワーのように
一身に浴びて聞いていました。だから、黙って聞いていた
ものの、いつの間にか慣れちゃったのでしょう。
だから、女性とは結構相性がいいのです(笑)。
ちょっとおばさんを一般化しすぎかもしれませんが
かなり当たってる気がします。
僕も御節介と言われることがあります。
僕の場合は母親+更に多くの「濃いオバサン」に囲まれて
育ったせいかもしれません。
こんなわけで、おばさんはとにかくよく喋るので
おばさんの『口コミ力』の威力もよく知っています。
僕が企業のマーケティング担当者だったら
まずはおばさんにターゲットを絞る気がします。
5 件のコメント:
うちらが仲良くなったのもそういうことだったのか。。
昨日19の子と焼肉食べに行ったら食いっぷりに感動して、ついついお肉お皿に入れちゃうのよねー
そうだよ、特に関西のおばさ・・・
なんて、そんなこと言えません!
最近焼肉ちょっとだけ食べたら
美味しかった。たまにはいいね!
ワタシには血のつながったおばさんがいない。つながっているのはおじさんばかりだ。しかしワタシは男のオバサンと呼ばれることが多い。男といる方が疲れる。本当に育ちによるのだろうか・・ホントはおばさんDNAのせいだったりして・・
核 心 を 突 か れ た !
>D
DNA+育ちでしょうね~って
言ったらなんでもそうだね。
>こいたん
我等「オバサン系男子」
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